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自己紹介①

株式会社イー・ジェー・アールの青木真大(あおきまさひろ)と申します。

こちらで、私の生い立ちを記していきたいと思います。

幼少時代

1971年12月21日、新潟市にて出生しました。美味しいお米を食べてすくすく育ったようです。

親の新規開業のため、3才8カ月で仙台市に引っ越しました。家の近くの「谷地舘(やちだて)公園」でよく砂遊びをしていました。

幼稚園は、近所の「志波幼稚園」に入ったのですが、牛乳が飲めなくて誰もいなくなった教室に一人残された苦い思い出があります。無口な子どもでした。

子ども時代

1978年4月、宮城野小学校に入学しました。

宮城野小学校昭和53年4月

休み時間は、校庭でドッジボールをしたり、現在は取り壊されてしまった「夢の山」に登ったりして遊んでいました。小1の時からピアノを習うことになり、週1回「京急仙台プラザ」に通ってました。(家でピアノの練習はほとんどしませんでした。)小3の時には、25mプール後ろにそびえ立っていた「ポプラ並木」が、アメリカシロヒトリという虫が大量発生したために伐採されてしまいました。小3から小5の担任だった秋山先生は、雨天時は外で遊べないので教室でゲーム持ち込みを認めてくださった寛大な方で、おかげで当時発売されたばかりのゲームウォッチは何種類も遊べて楽しかったです。クラブ活動は、将棋クラブに所属していました。

あと1年で卒業という時に、隣りの市工の向こう側に新設の「東宮城野小学校」に2クラス分異動することになりました。小6の1年間だけ在籍し第一回卒業生となるのですが、卒業アルバムには小5までの写真はありません(泣)。小6から2年ほどは、今はなき木造2階建ての「二枚橋公民館」の珠算教室にも通っていました。

小学校卒業後は、宮城野中学校に入学しました。宮千代に住んでましたので、宮城野貨物駅の上にかかる人道橋を渡って宮城球場の前を通過、35分かけて通学していました。(まさか、その20年後にプロ野球がやって来るなんて夢にも思いませんでした。)運動音痴を克服するため「バドミントン部」に所属、榴岡公園で毎日しごかれていました。

あと1年で卒業という時に、またしても学区変更となり、お隣の優等生が集う「東華中学校」に2クラスが異動、中3時のみ在籍し卒業しました。卒業アルバムを見ても、知らない人ばかりです…。